友達とは、何の関係か
— 同窓会の帰り道と、アリストテレスの友愛
連絡先には何百人もいる。なのに「友達は何人いるか」と問われると、なぜか言葉に詰まる。この関係は、数えられそうで、数えられない。
十数年ぶりの同窓会の帰り道、駅まで一人で歩きながら、妙な感慨にとらわれていた。あれほど毎日一緒にいた相手と、今夜は名刺交換のような会話しかできなかった。悪い時間ではなかった。ただ、かつて「親友」と呼んでいた関係が、いつのまにか「昔の友達」という、少し遠い棚に移っていたことに気づいてしまった。あの頃の私たちは、確かに友達だった。では、いまは何なのだろう。
友達とは、何の関係なのだろう。家族のような血縁でも、恋人のような契約めいた約束でもない。名前があるのに、輪郭がない。私たちは何をもって、誰かを友達と呼んでいるのか。
アリストテレスは、友愛を三つに分けた。一つめは「有用さ」による友愛。互いに利益があるからつながる関係で、仕事仲間や、情報を融通し合う間柄がこれにあたる。二つめは「快楽」による友愛。一緒にいて楽しいからつながる関係。趣味が合う、話が弾む、飲むと面白い。多くの友達づきあいは、この二つでできている。
そして彼は、これら二つには共通の性質がある、と見抜いた。どちらも、相手その人ではなく、相手が「もたらすもの」を愛している。利益や、楽しさを。だから、利益が消えれば、楽しさが薄れれば、関係も自然にほどける。彼はこれを冷たく断じたのではない。むしろ、こうした友愛が壊れやすいのは当然のことだ、と静かに認めた。同窓会の帰り道のあの感じは、まさにこれだった。学生時代の私たちを結んでいたのは、同じ教室、同じ時間割という「共有された状況」で、それが失われた今、つなぎ目もまた失われていたのだ。
では三つめは何か。「徳」にもとづく友愛、と彼は呼んだ。相手が利益をくれるからでも、楽しませてくれるからでもなく、相手その人が善くあろうとしているがゆえに、その存在を喜ぶ関係。ここでは、相手は手段ではなく、それ自体が目的になる。彼はこれを「もう一人の自分」とまで表現した。そしてこの友愛は、めったに生まれず、育つのに長い時間がかかり、だからこそ壊れにくい、と考えた。
この補助線を引くと、私の戸惑いの正体が見えてくる。私は、有用さと快楽でできていた関係に、徳の友愛と同じ永続性を期待していたのだ。状況が結んだ縁が状況とともに薄れるのは、裏切りでも風化でもない。ただ、種類が違っただけだ。そして気づく。三つのうちどれかが上等という話ではない。利益の友も、楽しい友も、人生には等しく要る。問題は、どの友愛なのかを取り違えて、勝手に多くを期待し、勝手に裏切られた気になることのほうなのだ。
とはいえ、関係をこう三つに腑分けして、これは有用、これは快楽と値踏みするのは、友情のいちばん大事なところを取り逃がす気もする。本当の友達づきあいでは、利益も、楽しさも、敬意も、たいてい溶け合っていて、切り分けられない。分類は、関係を理解する道具ではあっても、関係を生きる作法ではない。
同窓会で遠く感じた相手も、もし今夜もう一杯つきあっていたら、また違う棚に戻っていたのかもしれない。友達とは、棚の名前ではなく、いまここで一杯つきあうかどうかの、その都度の選択のことなのだろう。