約束について
— 古い約束と、ニーチェの記憶
明日の自分が何を感じているかも分からないのに、私たちはなぜ、未来を約束できてしまうのだろう。
古い手帳の隅に、何年も前に交わした約束のメモが残っていた。あのとき本気だったことは覚えている。だが正直に言えば、いまの自分は、あの頃とは少し違う人間だ。考えも、好みも、大事にするものも変わった。それでも約束は約束として、私を縛り続けている。なぜ私は、変わってしまった自分の分まで、過去の言葉で縛れるのだろう。
約束とは何だろう。明日どう感じるか分からない人間が、未来を確定させようとする。あの不思議な行為は、何を可能にしているのか。
ニーチェは、人間を「約束することのできる動物」と呼んだ。彼に言わせれば、これは途方もないことだ。なぜなら自然は忘れるようにできているのに、約束するには、未来のある時点まで自分の意志を持ちこたえさせ、覚え続けなければならない。彼はそれを、人間が自分自身に対して獲得した、一種の長い記憶の力だと考えた。約束できるとは、時間を貫いて「私は私だ」と言い張れる、ということなのだ。
だが、ここに最初の問いが戻ってくる。その「私」は、変わってしまうではないか。アーレントが鮮やかなのは、この変化のほうを、欠点ではなく前提として引き受けた点だ。彼女は、人間が変わりゆき、明日には心変わりしうる存在だからこそ、約束という能力が要るのだ、と考えた。もし私たちが石のように不変なら、約束などいらない。移ろう存在が、それでも未来に小さな確かさの島を作るための技術——それが約束だ。
そう捉えると、約束は未来を「予測」しているのではない。予測なら、変わった時点で外れて終わりだ。約束は予測ではなく、「引き受け」だ。私が変わろうとも、この一点だけは守る、と未来へ向けて自分を差し出す。だから古い約束が今なお私を縛れるのは、当時の私が正確に未来を見通したからではない。変わるであろう自分も含めて、その言葉を背負うと、あの日の私が引き受けたからだ。
そしてアーレントは、約束のとなりに、もう一つの能力を置いた。「赦し」である。約束が未来を縛る力なら、赦しは過去を解く力だ。人は約束を破る。破られたとき、関係を終わらせずに済ませる唯一の道が、赦すことだ。未来へ自分を投げる約束と、過去から互いを解き放つ赦し。この二つがあって初めて、移ろう人間同士が、それでも長く一緒にいられる。
もっとも、すべての約束を守り抜くことが誠実だとも、私は思わない。変わってしまった自分を、過去の言葉で縛り続けることが、ときに自分にも相手にも嘘になることがある。守るべき約束と、解くべき約束を見分けること。それは、破ることよりずっと難しい。
古い手帳を閉じる。あの約束を、いま改めて引き受け直すのか、静かに解くのか。どちらにせよ、決めるのは過去の私ではなく、今夜の私のほうなのだ。