「気がする」について
— 後輩の数表と、ポランニーの暗黙知
どこが、とは言えない。なのに「なんか変な気がする」。そしてその勘は、しばしば当たる。理由より先に、何が分かってしまっているのだろう。
後輩が作った数表を眺めていて、ふと手が止まった。合計は合っている。書式も整っている。どこにも、おかしいところは見当たらない。それなのに、「なんだか変な気がする」という感覚だけが、画面の隅に引っかかって離れない。理由を聞かれても答えられない。ただ、変な気がする。十五分ほど粘って、ようやく見つけた。ある月だけ、参照先が一行ずれていた。
不思議なのは、ずれを見つける前から、私が何かを知っていたらしいことだ。
「気がする」とは、どういう状態なのだろう。まだ言葉にならず、根拠も示せない。なのに、ただの気のせいとも違う。知っているのに、何を知っているのか言えない——そんな宙づりの認識は、なぜ成り立つのか。
ポランニーという科学哲学者に、有名な一文がある。「私たちは、語れることよりも多くを知っている」。彼はこれを「暗黙知」と呼んだ。人の顔を見分けるとき、私たちはその人の特徴を一つひとつ言葉にして照合しているわけではない。説明はできないのに、見れば分かる。知の大部分は、こうして言葉の水面下に沈んでいる。
彼の説明の鮮やかなところは、知に「向き」があると見た点だ。釘を打つとき、私たちは手のひらに当たる金槌の柄の感触を、一つひとつ意識してはいない。意識は柄を通り抜けて、釘の先へと向かっている。柄の感触は、感じられてはいるが、注意の的にはなっていない。彼はこれを、近くにあるものを「手がかり」として、遠くにあるものを「対象」として知る、二重の構造だと考えた。手がかりそのものは、見えないところで働いている。
この補助線を引くと、数表の前の私に起きていたことが見えてくる。何年も数字を見てきた目は、整った表が持つ「自然な手ざわり」のようなものを、言葉にしないまま手がかりとして蓄えていた。一行ずれた表は、その手ざわりをかすかに裏切っていた。私はずれそのものを見つけるより先に、手ざわりの違和だけを受け取っていたのだ。「気がする」とは、手がかりが何かを告げているのに、対象の像がまだ結ばれていない、その途中の状態だった。
だとすれば、「気がする」を根拠がないからと切り捨てるのは、惜しい。あれは、まだ言葉になっていないだけの、れっきとした知の前触れなのだ。経験を積むとは、言える知識が増えることであると同時に、言えないまま働く手がかりが、身体の奥に厚く積もっていくことでもある。ベテランの勘が侮れないのは、その沈黙の層が分厚いからだ。
とはいえ、「気がする」のすべてが正しいわけではない。手がかりは、思い込みや偏見からも等しく立ちのぼる。嫌いな相手の仕事は、なぜか粗く見える気がする。あの違和も、同じ「気がする」の顔をしてやってくる。勘と偏見は、内側からはよく似ている。
だから「気がする」は、結論ではなく、合図として扱うのがいい。無視はせず、鵜呑みにもせず、その先を確かめにいく。数表のずれを、十五分かけて探しにいったように。