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第十一夜ことばの解剖2026年6月12日(金)

「すみません」と言うとき

— エレベーターのひと言と、和辻哲郎の間柄

謝るときも、礼を言うときも、人を呼び止めるときも、口から出るのは「すみません」。なぜこの一語は、これほど何にでも使えてしまうのか。

場 面

エレベーターで、誰かが「開く」ボタンを押して待っていてくれた。会釈しながら、自然に口が動く。「すみません」。礼を言うべき場面なのに、出てくるのは詫びの言葉だ。考えてみれば、店員を呼ぶときも、道を尋ねるときも、贈り物を受け取るときさえ「すみません」と言っている。ありがとうでも、お願いしますでもなく。

問 い

なぜ私たちは、感謝の場面でまで「すみません」と言うのだろう。この一語は、いったい何を表しているのか。

思 索

「すみません」は、もともと「済む」の否定だという。事が済んでいない、収まりがついていない、という状態。つまりこの言葉は、自分の側に何かが片付かずに残っている、という感覚を述べている。面白いのは、それが謝罪にも感謝にも使えることだ。誰かに親切にされたとき、私のなかに「お返しすべき何か」が未払いのまま残る。その未済の感覚を差し出すのが、感謝の「すみません」なのだ。

和辻哲郎は、人間を「間柄」から考えた。彼は「人間」という言葉そのものに注目する。それは本来、人と人の「あいだ」を意味した。西洋の倫理が、まず孤立した個人を立て、その後で他者との関係を考えるのに対し、和辻は順番を逆に見た。私たちはまず関係のなかに投げ込まれていて、個人はそこから切り出されてくる、と。自分とは、間柄の結び目のようなものだ。

この補助線を引くと、「すみません」の正体が見えてくる。あれは、自分が他者との「あいだ」に負っているもの——受けた親切、かけた手間、未払いの恩——を、その都度確認し、引き受ける言葉なのだ。「ありがとう」が、相手の行為を正面から称えるのに対し、「すみません」は、その行為によって自分の側に生じた負い目のほうに目を向ける。視線の向きが違う。

だとすれば、この一語の多用は、卑屈さの表れというより、関係に敏感な文化の作法なのかもしれない。私は今あなたとの間柄において、いくらか借りのある状態にいます——そう告げることで、つながりを確認している。「済んでいない」と言い続けることは、関係がまだ続いている、という宣言でもある。

留 保

ただ、負い目を起点に関係を結ぶ作法には、影もある。何にでも「すみません」と言ううちに、自分が悪いわけでもない場面でまで頭を下げ、いつのまにか縮こまってしまう。済ませなくていい負債まで、勝手に背負い込んでしまうことがある。

礼を言うべきときには、いっそまっすぐ「ありがとう」と言ってみる。たったそれだけのことが、なぜか少し難しいのは、私がまだ、間柄の借りのほうを見る癖から、抜けきれていないからなのだろう。