「自分らしさ」という重荷
— プロフィール欄の空白と、サルトルの実存
「自分らしく生きよう」と励まされるほど、なぜか息苦しくなる。見つけるべき本当の自分が、どこかにある——その前提は、本当だろうか。
あるサービスの登録画面で、「あなたを一言で」という欄に手が止まった。趣味、肩書き、自己紹介。何を書いても、嘘ではないのにしっくりこない。書いた瞬間に、それが自分の全部ではない気がしてくる。「自分らしくいよう」とよく言われるが、その「らしさ」を一行で書けと言われると、とたんに分からなくなる。
「本当の自分」は、見つけ出すものなのだろうか。それは、すでにどこかに在って、私が掘り当てるのを待っているのか。
サルトルは、「実存は本質に先立つ」と言った。ペーパーナイフのような道具は、切るためという目的(本質)が先にあって、それから作られる。だが人間は逆だ、と彼は考えた。まず理由もなく存在してしまい、自分が何者であるかは、後から、自分の選択によって作られていく。あらかじめ決まった「本当の自分」という設計図は、どこにも無い。
これは一見、自由で爽やかな話に聞こえる。だがサルトルは、それを「人間は自由の刑に処されている」という不穏な言い方で表した。設計図が無いということは、何を選んでも、その責任を引き受けるのは自分しかいない、ということだ。言い訳のもとになる「本来の私」が無いのだから。自由は贈り物であると同時に、降りられない重荷でもある。
そう考えると、プロフィール欄での手の止まりは、欠陥ではなく正直さだったのかもしれない。一行で書けないのは、まだ自分を知らないからではなく、自分が一行に固定される前の、開かれた何かだからだ。「らしさ」を探す旅がいつも空振りに終わるのは、それが地中に埋まった宝ではなく、これから選ぶことでしか形にならないものだからだ。
「自分らしく」という励ましが息苦しいのは、たぶんそれが順番を取り違えているせいだ。すでに在る「らしさ」に従え、と命じてくる。だが本当は逆で、何を選び、何を続けるかが、後から「らしさ」と呼ばれるようになる。らしさは出発点ではなく、軌跡の名前なのだ。
とはいえ、何者にでもなれる、という言葉が、誰にとっても等しく軽いわけではない。生まれた場所、身体、巡り合わせ。選び直せないものを抱えた人に「すべては選択だ」と言うのは、ときに残酷でもある。自由は、まっさらな空白に立っているのではなく、いつも何かを背負った姿で始まる。
それでも、と思う。背負ったものの上で、なお次の一歩をどう選ぶか。その余地のことを、人は自由と呼んできたのだろう。