「ちょうどいい」を探して
— 後輩への小言と、アリストテレスの中庸
多すぎず、少なすぎず。誰もがそれを目指すのに、その「ちょうどいい」は、なぜマニュアルにできないのだろう。
後輩の資料に、どこまで口を出すか迷っている。何も言わなければ、見て見ぬふりになる。言いすぎれば、本人の考える芽を摘む。先週は黙りすぎて手戻りを生み、その反省で今週は言いすぎて、相手の顔を曇らせた。「ちょうどいい」の一点が、毎回どこかへ逃げていく。
「ちょうどいい」は、なぜ数値で決められないのだろう。多すぎと少なすぎの中間を取れば済む、という単純な話ではないらしい。
アリストテレスは、徳とは「中庸」にある、と考えた。勇気は、無謀と臆病のあいだにある。気前の良さは、浪費とけちのあいだにある。だがここで注意したいのは、彼の言う中間が、二点を足して二で割った算術の真ん中ではないことだ。彼ははっきり、それは「われわれにとっての」中間だ、と断った。同じ食事の量でも、大男と子どもでは適量が違うように、ちょうどよさは、相手と場面によって動く。
では動く的を、どうやって射るのか。彼が持ち出したのは、ルールではなく、「賢慮」という能力だった。これは、いつ・誰に・どの程度・どんなふうに振る舞うべきかを、その都度の状況のなかで見極める力だ。マニュアルには書けない。なぜなら状況は毎回違い、賢慮とはまさに、その違いを読む力だからだ。
後輩への小言が毎回外れるのは、私が固定の正解を探していたからだ。「三割は本人に任せ、七割は指摘する」式の比率があれば楽だが、そんなものはない。先週の正解は先週のもので、今週には効かない。賢慮は、過去の正解を運用する力ではなく、目の前の一回を読み直す力なのだ。
そしてアリストテレスは、賢慮は学問のように教われるものではなく、経験のなかで身につく、と考えた。何度も外し、外した手応えを覚え、次に少しだけ精度を上げる。ちょうどよさは、知識として持つものではなく、身体に蓄えていく勘に近い。だとすれば、私の迷いは失敗ではなく、その勘を鍛えている過程そのものなのかもしれない。
ただ、「ちょうどいい」を求めること自体が、ときに逃げ場になることも知っている。角を立てたくない、嫌われたくない。その保身が、中庸という上品な言葉で正当化されることがある。本当は、はっきり言うべき場面だったのに。
中庸は、両極からの逃避ではない。むしろ、どちらにも振れる勇気を持ったうえで、あえて選び取る一点のことだ。そこが、いちばん難しい。