退屈について
— 日曜の午後と、パスカルの気晴らし
やることは、いくらでもある。なのにこの手持ち無沙汰は何だろう。退屈は、暇とは違うらしい。
何の予定もない日曜の午後。やろうと思えば、読みかけの本も、観たい映画も、連絡すべき相手もいる。やることがないわけではない。むしろ、ありすぎる。なのに、どれにも手が伸びない。スマホを開いては閉じ、冷蔵庫を開けては閉じ、また座る。これは暇とは違う。暇なら、いっそ清々しい。この、満たされなさは何だろう。
退屈とは、何が欠けている状態なのだろう。することがないからではない。なら、何が足りないのか。
パスカルは、人間の不幸はただ一つ、部屋にじっと一人で座っていられないことから来る、と書いた。私たちは静止に耐えられない。だから狩りに出て、賭けに興じ、戦争さえする。彼はそれを「気晴らし」と呼んだ。気晴らしの恐ろしさは、それが楽しいことではなく、何かから目を逸らすための手段だという点にある。では、何から逸らしているのか。自分自身の、空虚さからだ。
退屈とは、気晴らしが切れて、その空虚と二人きりになってしまった状態なのだと思う。日曜の午後にどれにも手が伸びないのは、どの選択肢も、本当はこの空虚を埋められないと、心の底で見抜いているからだ。本も映画も、いつもなら立派な気晴らしなのに、今日に限って、その「逸らすための手段」という正体が透けて見えてしまっている。
ハイデガーは、この退屈をもっと深いところまで降りて考えた。彼によれば、深い退屈のなかでは、あらゆるものが等しくどうでもよくなる。世界全体が、するりと手元から引いていく。そして名前を呼ばれているのに誰も振り向かないように、私だけが、ぽつんと取り残される。だが彼は、この空白を絶望としては描かなかった。むしろそこにこそ、私が本当は何を大事にしたいのかを問い直す、めったにない静けさがある、と考えた。気晴らしで埋めていたものが引いて初めて、埋めるべきものの形が見えてくる。
だとすれば、退屈は欠落ではなく、合図なのかもしれない。何かが足りないのではなく、間に合わせのもので塞いでいた穴が、いま正直に口を開けている、という合図だ。
もっとも、退屈のすべてをこう持ち上げるのは、たぶん上品すぎる。多くの退屈は、ただ退屈なまま過ぎていくし、深く降りる前にスマホがそれを攫っていく。現代がうまいのは、空虚と二人きりになる時間を、一秒も残さないことだ。
退屈に耐える力は、もしかすると、自分と一緒にいる力の、別の名前なのかもしれない。