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第七夜ことばの解剖2026年5月15日(金)

「そのうち」という時間

— 積ん読の背表紙と、アウグスティヌスの時間

「そのうち行くね」「そのうち読む」。あの「そのうち」は、いつ来るのだろう。来ないことを、どこかで知りながら、私たちはなぜそれを使うのか。

場 面

本棚の一段に、買ったまま読んでいない本が並んでいる。背表紙はどれも見覚えがあるのに、中身は知らない。買った日の自分は確かに「そのうち読む」と思っていた。その「そのうち」が、もう二年ほど続いている。

友人とも、別れ際にいつも言う。「そのうち飲もう」。お互い、それが社交辞令でないことは知っている。でも、それが具体的な来週でないことも、たぶん知っている。

問 い

「そのうち」は、いつ来るのだろう。それは未来の一点なのか。それとも、未来の顔をした、別の何かなのか。

思 索

時間とは何か、と問われたアウグスティヌスは、有名な答え方をした。誰も問わなければ知っているのに、説明しようとすると分からなくなる、と。彼が突き当たったのは、過去はもう無く、未来はまだ無い、という単純で厄介な事実だった。本当に「在る」のは、いつでも現在だけだ。

では過去や未来はどこにあるのか。彼の答えは、心のなかにある、というものだった。過去は「記憶」として、未来は「期待」として、いまこの瞬間の心に畳み込まれている。未来そのものが向こうからやってくるのではない。私が現在において、未来を期待するのだ。時間は、外を流れる川ではなく、心の伸び広がりなのだ、と彼は考えた。

この補助線を引くと、「そのうち」の正体が見えてくる。あれは未来の時点を指しているふりをして、実は何も指していない。期待という心の働きだけがあって、その期待が着地すべき日付が、空欄のままなのだ。「来週の火曜」には締切が宿るが、「そのうち」には何も宿らない。日付のない期待は、永遠に現在へ繰り延べられる。

だが、と思い直す。「そのうち」を、ただの先送りと切り捨てるのは惜しい。あの言葉には、可能性をひらいたまま手元に置いておく、という働きもある。読むと決めた本は義務になるが、「そのうち読む」本は、まだ自由なままだ。友人との「そのうち」も、関係をいつでも再開できる状態で保温している。「そのうち」は、約束の重さを負わずに、つながりだけを残す技術なのかもしれない。

留 保

とはいえ、保温したまま冷めていくものもある。可能性のまま置かれた本が、ついに一度も開かれずに古びるように。「そのうち」が優しいのは、それがまだ生きている期待であるあいだだけだ。

本棚を見上げて思う。あの「そのうち」のいくつかは、もう期待ではなく、ただの風景になってしまったのかもしれない。