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第六夜夜の問い2026年5月8日(金)

なぜ働くのか、と訊かれたら

— 学生の逆質問と、アーレントの三分法

「なぜ働くのか」に、私たちはなぜ即答できないのだろう。答えがないからか、問いの形のほうがおかしいのか。

場 面

採用面接の手伝いに駆り出された日のことだ。ひと通りの質問が終わり、逆に何かありますか、と水を向けると、学生がまっすぐこちらを見て言った。「皆さんは、なぜ働いているんですか」。

会議室の空気が、一瞬だけ止まった。誰も即答できなかったのだ。生活のため、と言えば嘘ではない。だが、それが全部でないことも、その場の全員が知っていた。

問 い

「なぜ働くのか」に、私たちはなぜ即答できないのだろう。答えを持っていないからか。それとも、問いの形のほうが、何かおかしいのか。

思 索

アーレントという哲学者は、人間の営みを三つに分けた。一つめは「労働」。食べるために稼ぎ、稼ぐためにまた食べる、生命を回すための繰り返し。成果はすぐに消費されて、あとには残らない。二つめは「仕事」。机や橋や本のように、自分より長く世界に残る物を作ること。三つめは「活動」。物を介さず、言葉と行いによって、人と人のあいだで「自分が誰であるか」を現すこと。

この三分法を補助線にすると、あの会議室の沈黙の正体が見えてくる。現代の「働く」は、この三つが一本の雇用契約に混ぜ込まれている。給料をもらう面では労働であり、何かを作る面では仕事であり、会議で発言しチームを動かす面では活動だ。「なぜ働くのか」に即答できないのは、あれが実は三つの問いの束だからだ。

生命のため、という労働の答えなら、誰でもすぐに言える。だが訊いた学生も、訊かれた私たちも、本当に問われているのは残りの二つだと感じている。あなたは何を残すのか。あなたは誰として、人の前に現れるのか。

「金のためですよ」と答えるとき、嘘ではないのにどこか後ろめたいのは、三つのうち一つにしか答えていないことを、自分で知っているからだ。そして、働くことのしんどさの何割かも、ここから説明がつく気がする。賃金は足りているのに何かが痩せていくとき、欠けているのはたいてい、残るものか、現れる場所のどちらかなのだ。

留 保

ただ、これを労働を見下す話にはしたくない。生命を回すための繰り返しには、それ固有の、静かな尊さがある。毎朝米を炊くことと、毎月帳簿を締めることは、世界をもう一日続けさせている。残らないことは、無意味と同じではない。

あの日、結局私は「面白いからです」と答えた。半分は本当で、半分は時間稼ぎだった。言いそびれた残りの半分を、いまもときどき探している。