数字にならないものの値段
— 月末の締めと、ジンメルの貨幣
値段がつかないものは、価値がないのだろうか。それとも、値段という物差しのほうが、そこまで届かないだけなのだろうか。
月末の夜、オフィスにはもう人が少ない。画面の中では、今月起きたことのすべてが数字に変わっていく。出張の移動も、接待の食事も、倉庫の在庫も、誰かの残業も、勘定科目と金額になって、あるべき場所に収まっていく。
締めが終わって伸びをしたとき、ふと思った。今日、この表に入らなかったものは何だっただろう。たとえば、後輩が黙って手伝ってくれた三十分。取引先の担当者が利かせてくれた機転。あれは、どの科目にも立たない。
値段がつかないものは、価値がないのだろうか。それとも、値段という物差しのほうが、そこまで届かないだけなのだろうか。
貨幣の正体を、ジンメルという哲学者は「翻訳」だと見抜いた。パンと、靴と、一時間の労働。本来は比べようのない、質の違うものたちを、貨幣はぜんぶ「量の差」に訳してしまう。この翻訳のおかげで、見ず知らずの他人同士がものを交換でき、文明はその上に立っている。
会計は、この翻訳装置のいちばん洗練された形だと思う。世界の出来事を借方と貸方に書き切る複式簿記を、ゲーテは小説の登場人物に「人間の精神が生んだ最も見事な発明のひとつ」と言わせた。私も画面の前で、ときどき同じことを思う。よくもまあ、世界をここまで書き切れるものだ、と。
だが、どんな翻訳にも「訳しきれない残り」が出る。価格が語っているのは、実のところ「他のものとの交換比率」だけだ。つまり価格は関係の言葉であって、そのもの自体の言葉ではない。後輩の三十分に値段がつかないのは、価値がないからではなく、あれが交換を拒んでいるからだ。返すなら金ではなく、いつか別の三十分でしか返せない。
面白いのは、会計自身がこの限界をいちばんよく知っていることだ。会社を買収するとき、帳簿のどこにも載っていない価値の塊——信用、人のつながり、積み上がった呼吸——に、会計は「のれん」という科目を立てる。数字にならないものへ、観念して値段をつける瞬間のための科目。あの居心地の悪さごと制度にしてあるところに、私はこの技術の正直さを感じる。世界を数字で書き切ろうとして、書き切れないことを、ちゃんと知っている。
とはいえ、「お金で買えないものこそ尊い」という常套句にも寄りかかりたくない。値段がつくことで守られるものは、確かにあるからだ。働きに正当な対価が払われること。作品が市場で生き延びること。値段は、ときに敬意の形式にもなる。
問題は物差しがあることではなく、物差しが一本しかないと思い込むことのほうだ。