なぜ僕らは、わざわざ遠くへ行くのか
— 旅の前夜と、ベンヤミンのアウラ
あらゆる場所が画面のなかで見られる時代に、「そこに立つ」ことの何が、それほど代えがたいのだろう。
旅の前夜、床にスーツケースを開いている。行き先のことは、もう調べ尽くした。地図は頭に入り、ストリートビューで駅から宿までの道を三度歩き、現地の朝の気温も、座席からの眺めも知っている。それでも行く。むしろ妙な話だが、知っているのに行く。知っているからこそ、確かめに行く、と言ったほうが近いのかもしれない。
あらゆる場所が画面のなかで見られる時代に、「そこに立つ」ことの何が、それほど代えがたいのだろう。情報としては、現地に行ってももう、ほとんど何も増えないはずなのに。
ベンヤミンは、写真や映画が芸術をいくらでも複製できるようになった時代に、それでも複製には宿らない何かを「アウラ」と呼んだ。面白いのはその定義のしかたで、彼はアウラを、どれほど近くにあっても遠さが現れること、というふうに言い表した。近づいても消えない遠さ。手を伸ばせば触れられる距離にありながら、こちらに完全には属さないもの。
写真で千回見た建築の前に立つとき、起きているのはたぶんこれだ。情報は一枚も増えていない。なのに、目の前のそれは画像と決定的に違う。同じ光を浴び、同じ風のなかに、自分の身体が置かれている。複製技術は対象をこちらへ引き寄せる技術だが、旅は逆向きだ。自分の身体のほうを、対象の側へ運んでいく。
だから旅は、距離を消す行為ではなく、距離を確かめる行為なのだと思う。世界中の風景が画面のなかに均質に並ぶほど、「遠い」という感覚そのものが貴重品になっていく。時差で重い頭、知らない街の匂い、一度では通じない注文。旅の不便さの全部が、世界がこの身体の外に、ちゃんと実在することの証拠になる。
利便の側から見れば、旅は割に合わない。金がかかり、時間を食い、得られる情報は家のソファと変わらない。それでも空港の出発案内の前に立つと、いつも少しだけ襟を正すような気持ちになるのは、これから情報ではないものに会いに行くからだ。
帰ってきて、旅で何を得たのかと聞かれると、いつも答えに詰まる。持ち帰れたのは写真と土産くらいで、肝心の何かは現地に置いてきた気がする。だが、持ち帰れないものがある、と確かめに行くのが旅なのだとしたら——あの空っぽの感じこそが、収穫なのかもしれない。