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第二夜ことばの解剖2026年4月10日(金)

「面倒くさい」の正体

— 日曜の夜、シンクの皿と、中動態

五分で終わる皿洗いを前に、私はいったい何を測って「面倒」と言っているのだろう。

場 面

日曜の夜、シンクにマグカップと皿がふたつ沈んでいる。洗えば五分で終わる。それは知っている。今日は別段疲れる一日だったわけでもなく、体力は残っている。なのに、ソファから立てない。口をついて出るのは、決まってあの言葉だ。「面倒くさい」。

問 い

このとき私は、いったい何を測って「面倒」と言っているのだろう。労力なら、五分ぶんしかない。山道を五分のぼるほうがよほど大変なのに、旅先でなら誰もそれを面倒とは呼ばない。「面倒くさい」が測っているのは、労力ではない何かだ。

思 索

手がかりはある。同じ皿洗いでも、面倒でないときがあるのだ。たとえば、来客にコーヒーを淹れたあとの後片付け。同じ五分、同じ食器なのに、あれは不思議と苦にならない。とすると面倒くささは、行為そのものの性質ではなく、行為と自分のあいだの「接続」の問題らしい。

ハイデガーは、人間はまず「気分」を通して世界に出会う、と考えた。気分は感情のおまけではなく、世界がどんな顔でこちらに現れるかを決める土台だ。面倒くさいという気分のなかで、シンクの皿は「意味の回路から切れた、ただの物体」として現れている。誰のためでも、何のためでもない作業として。

もう一歩だけ進めたい。國分功一郎が掘り起こした「中動態」という古い文法がある。能動(する)と受動(される)にきっぱり分かれる前、言語には「過程のなかにいる」ことを表す態があったという。この補助線を引くと、「面倒くさい」は、するとされるのあいだで立ち止まっている状態に見えてくる。行為の主体として立ち上がることへの、身体の側からのささやかな抵抗。

だとすれば、怠惰とひと括りにされているものの中には、案外正確なセンサーが混ざっている。その行為が、いまの自分の生の文脈につながっていないことを知らせる感受性だ。「面倒くさい」を根性で踏み潰す前に、一度だけ問い直してみる価値はある。これは誰の、何のための行為だったか、と。

留 保

ただし、と夜のソファで思う。意味を感じられてから動くのでは、人生のたいていのことは始まらない。先に手が動いて、意味があとから追いつく——そういう順番も、確かにあるのだ。

皿は結局、洗った。意味は、湯気と一緒に少しだけ立ちのぼった気がした。