「待つ」について
— 遅延した山手線と、ベルクソンの時間
待っているとき、私は何をしているのだろう。「何もしていない」はずなのに、なぜこんなに疲れるのか。
夕方の山手線が、点検で止まった。ホームの電光掲示板には「約3分の遅れ」とある。たった3分だ。会議に遅れるわけでもなく、誰かを待たせているわけでもない。それなのに、ホームに立つ私は明らかに落ち着きを失っていて、スマホを取り出しては、何も見ないままポケットに戻すことを繰り返している。隣の人も、その隣の人も、ほとんど同じ動きをしている。
3分は、コーヒーを淹れていれば一瞬で過ぎる。なのにホームの3分は、奇妙に長い。
待っているとき、私は何をしているのだろう。「何もしていない」が答えのはずだ。だが本当に何もしていないだけなら、なぜこんなに消耗するのか。待つことには、何か固有の労働が含まれているのではないか。
時計の時間は、空間の言葉でできている。文字盤の上を針が「進み」、予定と予定の「あいだ」が空き、締切が「近づく」。均質で、分割できて、誰が測っても同じ長さ。私たちが普段「時間」と呼んでいるものは、ほとんどこれだ。
ベルクソンという哲学者は、これを時間の本体だとは考えなかった。彼が「持続」と呼んだのは、意識のなかを流れる、濃さも速さも一定でない時間のことだ。彼の挙げた例は素朴で、砂糖水を作るには、砂糖が溶けるのを待たなければならない、というものだった。この「待たなければならない」は物理の話ではない。溶けるまでの時間が、私の焦りやあきらめと混ざり合いながら、私だけの長さで流れていく、という話だ。
そう考えると、ホームの3分が長い理由も少し見えてくる。何かに没頭しているとき、時間は意識されない。流れそのものに乗っているからだ。待つとき、私たちはその流れから降ろされる。時間が突然、目の前に立ちはだかる。3分が長いのは、3分のあいだずっと、時間そのものと向き合わされるからだ。
そして待つことは、受動のようでいて、奇妙に能動的でもある。意識だけが先回りして改札を抜け、まだ来ない電車に乗り、もう家に着いている。身体だけがホームに置き去りにされる。この、意識と身体の引き裂かれが、たぶん待つことの労働の正体だ。だから何もしていないのに、疲れる。
かつての生活は、待つことだらけだったはずだ。湯が沸くのを待ち、手紙の返事を待ち、季節がめぐるのを待った。テクノロジーの歴史は、待ち時間を消してきた歴史だと言ってもいい。それは間違いなく進歩で、私はもう、写真の現像を三日待つ生活には戻れない。
ただ、待つことが、時間と正面から向き合うほとんど唯一の機会だったのだとしたら。私たちは便利さと引き換えに、時間を感じるための器官を、ひとつ手放しつつあるのかもしれない。