決められないとき
— 二つの求人票と、キルケゴールの選択
どちらにも理由がある。どちらにも不安がある。決められないまま迷っている時間も、実はひとつの選択なのだと、うすうす気づいている。
二つの選択肢を前に、三か月迷っている。条件を書き出し、点数をつけ、人にも相談した。数字はほとんど並んでいて、どちらにも決め手がない。
そして気づく。この三か月、私は決めていなかったのではない。決めないことを、毎日選び続けていたのだ。
決められないとは、どういう状態なのだろう。情報が足りないのか。勇気が足りないのか。それとも、選ばないでいることのほうが、心のどこかで得だと知っているのか。
キルケゴールは、人の生き方をいくつかの段階に分けて描いた。その最初に置かれたのが、可能性のなかを漂う生き方である。あらゆるものを味わい、どれにも縛られず、いつでも別の自分になれる余地を残しておく。彼はこれを、詩人や享楽者の姿として描いた。そこでは選択が先延ばしにされ、可能性が可能性のまま保たれる。
彼が容赦ないのは、この段階の甘美さを認めたうえで、そこには自己が存在しないと言い切る点だ。何にも決めない私は、何者でもない。次の段階へ移るために必要なのは、より良い選択肢を見つけることではない。選ぶという行為そのものを、引き受けることだ。彼にとって決断とは、正解を当てることではなく、選んだものに自分を賭けることだった。
この補助線を引くと、三か月の迷いが見えてくる。私は情報を集めていたのではない。決めないでいるかぎり、私はまだ両方の可能性を持った人間でいられる。選んだ瞬間、片方は永久に失われ、そして私は「そちらを選んだ人」という、有限で具体的な誰かになる。迷いの快さは、何者にもならずに済む快さだった。
そしてキルケゴールは、有名な逆説を残した。結婚してもしなくても、あなたはどちらも後悔するだろう、と。だが彼は、それを絶望として書いたのではない。どちらを選んでも後悔があるなら、後悔しない道を探すことに意味はない。残っているのは、後悔ごと引き受けられるかどうかだ。第十二夜で見た約束が、変わりゆく自分を先に差し出す行為だったように、決断とは、まだ見ぬ後悔を、あらかじめ抱きしめておく行為なのだと思う。
とはいえ、決められないことをすべて心の弱さに帰すのは、乱暴で、ときに残酷だ。選択肢のどちらもが生活を脅かすとき、迷いは臆病ではなく、正当な警戒である。決断を称える言葉は、失敗しても戻れる場所を持つ人にだけ、軽やかに響く。
それでも、と求人票を眺めて思う。三か月かけて分かったのは、条件の差ではなかった。どちらを選んでも失うものがある、というただそれだけのことを、私はずっと認めたくなかったのだ。