手書きの字
— 宛名書きと、メルロ=ポンティの身体
同じ文字のはずなのに、その人の字だとわかってしまう。字が伝えているのは、意味だけではないらしい。
封筒の宛名を手で書いた。何年ぶりだろう。書き終えて眺めると、驚くほど下手だった。画面の上でなら、こんな醜さは決して生まれない。
だが同時に、思い出したこともある。祖母の字を、私は一目で見分けられた。同じ「あ」という文字なのに、あれは間違いなく祖母の「あ」だった。伝えられていたのは、意味だけではなかったらしい。
字とは何だろう。意味を運ぶ記号なら、誰が書いても同じはずだ。それなのに、なぜ字には人が宿るのか。あの癖は、いったい何の痕跡なのか。
メルロ=ポンティは、身体を、精神が乗り込んだ乗り物だとは考えなかった。私たちは身体を「持って」いるのではなく、身体で「ある」。世界を知るのは頭ではなく、まず手であり、足であり、姿勢である。彼は、身体が世界と関わり続けるうちに獲得していく、暗黙の構えのようなものを描き出した。自転車に乗れるようになった人が、乗り方を言葉で説明できないのと同じ意味で、身体は世界を知っている。
この見方が鮮やかなのは、道具の扱いを説明するところだ。杖を使い慣れた人にとって、杖はもはや外の物ではない。触覚は杖の先まで伸び、身体の輪郭が延長される。手に馴染んだ道具は、対象ではなく、世界に触れるための器官になる。
この補助線を引くと、字が見えてくる。ペンを握った手にとって、ペン先はもう手の一部だ。だから字は、記号を紙に転写した結果ではない。ある身体が、ある速さで、ある力の入れ方で、紙という世界に触れた軌跡そのものなのだ。癖とは、その身体が長い年月をかけて世界と折り合った形の、目に見える沈殿である。祖母の「あ」に祖母がいたのは、当然だった。あれは祖母の手が通った道なのだから。
そう考えると、私の字が下手であることも、少し違って見える。あれは失敗ではなく、私の身体が世界に触れたときの、正直な形だ。第十四夜で触れた、語れないまま働く知の層が、ここにも顔を出している。字とは、言葉にならない身体の知識が、たまたま言葉の形をとって現れたものなのかもしれない。
とはいえ、手書きを称え、印字を貶めるのは筋が悪い。読みやすさは親切であり、私の癖のある字は、受け取る人に解読の労を強いる。字の美しさを人格の証明のように語る風潮は、身体の条件が違う人を、それだけで裁いてしまう。
痕跡が残るのは、手書きの美点であると同時に、逃げ場のなさでもある。震えた手も、急いだ心も、そのまま出てしまう。だから宛名を書き終えたあと、私は少しだけ、裸で立っているような気分になった。