← 目次
第二十七夜夜の問い2026年10月2日(金)

他人の不幸は、なぜ

— 隣の席の失敗と、スピノザの感情

願ってなどいなかったはずだ。それなのに、誰かの失敗を聞いた瞬間、胸の底で何かがかすかに動く。あれは何だろう。

場 面

同期がしくじったらしい、と噂で聞いた。気の毒だと思った。それは嘘ではない。だがその一秒前、胸の底で、何かがかすかに軽くなったのを、私は確かに感じていた。

願っていたわけではない。むしろ好きな相手だ。それなのに、あの一瞬の安堵は、どこから来たのだろう。そして、それを感じてしまった自分を、私はその日ずっと嫌っていた。

問 い

他人の不幸に、なぜ人は密かに安堵するのだろう。得をしたわけでもない。悪意もない。この感情は、私の性根の悪さの証拠なのか。それとも、もっと機械的な何かなのか。

思 索

スピノザは、感情を道徳的に裁くことをしなかった。彼の『エチカ』が異様なのは、憎しみも嫉妬も、罪ではなく、自然の出来事として扱われる点だ。彼に言わせれば、感情を非難する人は、雨を非難する人に似ている。理解しないまま断罪しても、雨はやまない。

彼が土台に置いたのは、すべてのものが自分の存在を維持しようとする力だという考えだった。人は、その力が増したとき喜びを感じ、減ったとき悲しみを感じる。喜びと悲しみは道徳的な評価ではなく、力の増減を示す計器の針にすぎない。

この補助線を引くと、あの安堵が見えてくる。私は同期を、いつのまにか自分と同じ物差しの上に置いていた。同じ会社、同じ年次、比べられる立場。その物差しの上では、相手が下がることと、私が上がることは、同じ一つの出来事になる。だから私の計器の針は、正直に振れた。あれは悪意ではない。位置関係が生んだ、ほとんど物理的な反応だ。スピノザは、似た者どうしのあいだにこそ、この感情が生まれると見ていた。まったく違う世界の誰かの不運に、人はこんなふうには反応しない。

だとすれば、責めるべきは針の動きではなく、物差しのほうだ。私が同期を、比較の対象として置いていたこと。そこが問題の在り処だった。そしてスピノザなら、こう続けるだろう。自分の感情の原因を正確に理解できたとき、その感情に振り回されることは少なくなる、と。恥じ入って蓋をするより、なぜ振れたのかを見るほうが、たぶん遠くまで行ける。

留 保

とはいえ、理解すれば消えるほど、この感情は素直ではない。原因が見えたあとも、針はやはり振れる。理解と、感じないことは別のことだ。

それでも、あの一瞬の安堵を持て余していた自分より、いまのほうが少しましだと思う。感じてしまったことを責めるのではなく、比べることをやめられるか。それは針ではなく、物差しの問題だから、こちらの手で動かせる余地がある。