「久しぶり」と言うとき
— 改札前の再会と、リクールの物語
半年ぶりでも、十年ぶりでも、口をつくのは同じ「久しぶり」。あの一語は、いったい何の長さを測っているのだろう。
改札の前で待ち合わせた相手に、「久しぶり」と言った。相手も同じ言葉を返した。半年ぶりだった。
先月、十年ぶりに会った人にも、私はまったく同じ言葉を使っていた。半年と十年が、同じ一語で括られる。しかも不思議なことに、半年ぶりのほうが遠く感じられ、十年ぶりのほうが、昨日の続きのように話せたりする。
「久しぶり」は、何を測っているのだろう。カレンダーの日数でないことは確かだ。会わなかった時間の長さでないなら、あの一語は、何と何のあいだの距離を言っているのか。
ポール・リクールは、人が自分を理解する仕方は、物語の形をとるしかない、と考えた。私という存在は、変わり続ける身体と記憶の束であって、そのままではまとまりを持たない。ばらばらの出来事を、始まりと途中と、まだ書かれていない先へと筋立てることで、初めて「私」という一貫した誰かが立ち上がる。彼はこれを、物語的な同一性と呼んだ。
この考え方が面白いのは、他人を知るということが、その人の物語を分けてもらうことになる点だ。近しい相手とは、互いの筋書きに登場人物として書き込まれている関係のことだ。一緒にいる時間、私たちは相手の物語を、少しずつ更新し続けている。
この補助線を引くと、「久しぶり」の正体が見えてくる。あれは日数ではなく、更新されなかった物語の厚みを測っている。会わないあいだ、相手の話は進んでいた。転職も、別れも、小さな決意も、私の知らないところで筋書きに書き加えられた。私の手元にある相手の物語は、最後に会った日で止まっている。「久しぶり」は、あなたの物語に、私が読んでいない部分がある、という宣言なのだ。
だから半年が遠く、十年が近い、という逆転が起こる。相手の生活が激動していれば、半年でも分厚い空白ができる。何も変わらなければ、十年でも数ページで済む。そして再会の会話は、いつも同じ作業になる。互いの空白を、要約して読み合わせること。「久しぶり」の直後に、私たちが決まって近況を語り出すのは、礼儀ではなく、必要だからなのだ。
ただ、要約には必ず編集が入る。語るに値しないと判断された時間は、そこで切り捨てられる。空白の大部分は、そうして永久に共有されないまま消えていく。私が知る相手の物語は、相手が私に語ってよいと思った物語だけだ。
それでも、と改札の前で思う。読んでいない部分がある、と互いに認めることから、話は始まる。「久しぶり」は、断絶の確認ではなく、続きを読ませてほしいという、控えめな求めなのだろう。