← 目次
第二十五夜夜の問い2026年9月18日(金)

眠れない夜について

— 天井の暗さと、レヴィナスの「ある」

疲れているのに眠れない。眠ろうとするほど、目が冴えていく。あの時間、私はどこにいるのだろう。

場 面

疲れているのに、眠れない。目を閉じても、暗さの向こうで何かがずっと起きている。考えごとをしているわけでもない。ただ、意識だけが消えてくれない。

時計を見るのをやめ、寝返りを打つのもやめて、天井の暗がりを見ている。世界は静まりかえっているのに、その静けさが、なぜか騒がしい。

問 い

眠れないとき、私は何をしているのだろう。何もしていない。何も考えていない。それなのに、この時間はなぜこれほど消耗するのか。眠りは、私から何を取り去ってくれていたのか。

思 索

レヴィナスは、若い頃の著作で、奇妙なものに名前をつけた。すべての存在するものが消え去ったと想像してみる。事物も、人も、私も。それでも、彼に言わせれば、何かが残る。何も無いという、その「ある」ことだけが残る。彼はそれを、主語のない出来事として描いた。誰かが在るのではなく、ただ、在るという事態が、無人称のままざわめいている。

彼はこのざわめきを、不眠のうちに見いだした。眠れない夜、私は何かを見張っているわけではない。にもかかわらず、意識は消えることを許されず、目覚めたまま宙づりにされる。眠れない者は、自分の意識の主人ではない。誰のものでもない覚醒が、たまたま私を通って続いているだけだ。だから何もしていないのに疲れる。私はそこで、主語であることをやめさせられている。

この補助線を引くと、眠りが何をしてくれていたのかが見えてくる。眠るとは、意識を失うことではなく、身体という一点に錨を下ろすことだ、と彼は考えた。人は横になり、場所を得て、その場所へ引き渡されることで眠りに落ちる。眠りとは、無人称のざわめきから退避して、「ここにいる私」という一点に帰る営みなのだ。毎晩、私はそこへ帰り、朝になるとまた「私」として立ち上がる。

だとすれば、眠れない夜の消耗は、休めないことの疲れではない。私に戻れないことの疲れだ。天井の暗がりの騒がしさは、私を差し置いて世界がただ在り続けていることの、剥き出しの手ざわりなのかもしれない。そして明け方、ようやく訪れる浅い眠りは、世界からの離脱ではなく、世界のなかに自分の場所を取り戻す、小さな帰還なのだ。

留 保

もっとも、眠れない夜のすべてを、こう深く読むのは危うい。ただ寝室が暑いだけの夜もあるし、飲みすぎた夜もある。不眠を哲学に格上げしても、翌朝の頭痛は治らない。

それに、眠れない日が続くのなら、それは考えるべき問いではなく、相談すべき事柄だ。誰かに一度そう言われて、私は驚いたことがある。眠りは、意志で取り戻すものではないらしい。天井を見上げる夜が長く続いているなら、明日の朝は、詩ではなく人に話すほうがいい。