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第二十四夜価値の手ざわり2026年9月11日(金)

手放せないもの

— 段ボールの底と、フロムの持つこと

五年も開けていない箱を、それでも捨てられない。使わないと知っているのに、なぜ手放すことがこんなに難しいのだろう。

場 面

押入れの奥に、引っ越しのときのまま封を切っていない段ボールがある。五年分の埃をかぶっている。中身は、たぶん学生時代の資料と、もう動かない機械と、いつか読むつもりだった本だ。

五年開けなかったのだから、要らないという証明は済んでいる。それでも、捨てようとして手が止まる。捨てるとき、私は物を失うのではなく、何か別のものを失う気がする。

問 い

手放せないのは、なぜだろう。使わないと知っている。値打ちもない。それでも、所有をやめることが、これほど身を切るように感じられるのはなぜか。

思 索

エーリッヒ・フロムは、人間の生き方を二つの様式に分けた。「持つ」様式と、「ある」様式である。持つ様式では、私は所有物の総和として自分を確かめる。学歴を持ち、地位を持ち、知識を持ち、思い出の品を持つ。ある様式では、私は経験し、関わり、変化していく過程そのものとして生きる。前者では自己は固定した財産であり、後者では自己は動き続ける出来事だ。

彼が鋭いのは、持つ様式の裏側に、必ず不安が貼りついていると見た点だ。持っているもので自分を定義してしまえば、それを失うことは、自分を失うことになる。だから所有は安心をもたらすと見せかけて、失うことへの恐怖を同じだけ生む。多く持つほど、脅かされる面積は広がる。私は物を持っているつもりで、いつのまにか物に持たれている。

この補助線で、段ボールの底が見えてくる。あの箱に入っているのは、資料や機械ではない。あれを勉強していた頃の自分、あれを使っていた頃の自分だ。捨てることは、その頃の自分がもう存在しないと認めることに等しい。私が手放せないのは物ではなく、物に預けた過去の自己証明なのだ。開けずに持ち続けているかぎり、その自分はまだ、どこかに保管されている。

だとすれば、手放すことの難しさは、けちくささではなく、喪の作業の難しさなのだと思う。物を捨てるとき、人は小さく誰かを見送っている。それが重いのは当然だ。そして厄介なことに、捨てなければ見送れない。箱を閉じたままにしておくかぎり、私はその自分を弔うことも、そこから自由になることもできない。

留 保

とはいえ、何も持たない身軽さを称える語り方には、警戒したほうがいい。手放せるのは、いつでも買い直せる者の特権でもある。持たない暮らしを美徳として語る声は、たいてい、持てる場所から発せられている。

それに、フロムの言う「ある」様式を、所有の全否定と読むのも乱暴だ。祖母から譲られた一枚の皿を、私は持っているのではなく、預かっているのかもしれない。捨てるかどうかの前に、それを何と呼ぶかで、手のひらの重さは変わる。