「大丈夫です」と言うとき
— レジ前の一言と、オースティンの言語行為
袋は要りますか。大丈夫です。——この返事は、要るのか要らないのか。それでも会話は、なぜか成立している。
レジで「袋はご入用ですか」と聞かれ、「大丈夫です」と答えた。店員は袋を出さなかった。正解だった。
だが冷静に考えると、「大丈夫」は肯定の言葉だ。無事である、問題ない、という意味しか持たない。それなのに、この文脈では明確に断りとして働き、しかも誰も混乱しない。同じ一語が、別の場面では「手伝いましょうか」への遠慮にも、「体調は」への安心の報告にもなる。
「大丈夫です」は何を意味しているのだろう。意味が定まらないのに、伝達は毎回きれいに成功する。この言葉は、意味を運んでいるのか、それとも別の何かをしているのか。
オースティンという哲学者は、それまで当然とされていた前提を疑った。文とは世界の事実を写し取り、真か偽かが問われるものだ、という前提である。だが「約束する」「命名する」「謝る」といった言葉は、何かを記述していない。それを口にすること自体が、約束であり、命名であり、謝罪なのだ。彼はこれを、言葉による行為と呼んだ。
そして彼は考察を進めて、実はすべての発話が行為なのだと見るに至る。何かを言うことは、いつでも同時に何かをすることだ。だから発話を評価する物差しは、真偽ではなく「うまくいったかどうか」になる。適切な場で、適切な相手に、適切な作法で行われたか。約束は、権限のない者が口にすれば、嘘ではなく、ただ無効になる。
この補助線を引くと、レジ前の「大丈夫です」が見えてくる。あれは袋についての事実を述べているのではない。断るという行為を、直接には断らない形で遂行している。「要りません」は拒絶の形をしているが、「大丈夫です」は、あなたの申し出は私にとって何の問題も生みません、と言っている。相手の親切を否定せずに、その親切を受け取らずに済ませる。行為としては断り、形としては安心の報告なのだ。
だから曖昧さは欠陥ではない。むしろ、この一語の働きそのものだ。意味を確定させないことで、私は「拒否した人」にならずに済み、相手も「断られた人」にならずに済む。何が起きたのかを、二人とも言葉にしない。第十一夜で見た「すみません」が、関係の負い目に触れる言葉だったとすれば、「大丈夫です」は、関係を傷つけずに済ませるための、もう一つの緩衝材なのだろう。
ただし、緩衝材は厚すぎると何も伝わらない。「大丈夫です」と言われた側が、本当に大丈夫なのか判断できず、必要な手が差し伸べられないことがある。この言葉で断られ続けた人は、いつしか申し出ることをやめる。
そして自分にも使えてしまうのが厄介だ。大丈夫でないときに大丈夫と言う。あれは断りの言葉であると同時に、助けを拒む言葉でもある。誰かの「大丈夫です」を、そのまま受け取っていいのか。私はまだ、うまく見分けられない。