値切るということ
— 市場の攻防と、グレーバーの負債
旅先では平気で値切るのに、近所の店では一度も言い出したことがない。同じ買い物のはずなのに、何が違うのだろう。
旅先の市場では、値札のない品を前に、半額から交渉を始めた。相手も笑っていた。何往復かして、たぶん妥当なところに落ち着き、握手のようなものをして別れた。
帰国して、近所の八百屋で同じことをする気には、まったくならない。値札に書いてある数字を、そのまま払う。値切るという発想が、そもそも浮かばない。同じ買い物のはずなのに、この落差は何だろう。
値切るとは、何をしている行為なのだろう。安く買うためだけなら、どこでも値切ればいい。それができる場所とできない場所を、私たちは何によって分けているのか。
人類学者のデヴィッド・グレーバーは、経済学の教科書が語る起源の物語を疑った。物々交換の不便を解消するために貨幣が生まれた、という筋書きである。だが調べてみると、そんな社会はどこにも見つからない。実際に先に存在したのは、貸し借りの記録、つまり負債のほうだった。人は互いに貸しをつくり、覚えておき、いつか返す。貨幣は、その貸し借りを数字で表すために後から現れる。
この順序を入れ替えると、価格の意味が変わってくる。彼が鮮やかなのは、貨幣の本質を「関係を清算して立ち去れること」に見た点だ。共同体のなかで誰かに助けられれば、その負い目は消えない。だが代金を払えば、私たちは互いに何も負わない他人へ戻れる。値段とは、関係を断ち切るための道具でもあるのだ。
そう考えると、旅先の値切りが説明できる。あの交渉は、金額を巡っているようでいて、実は「私たちはこの一回きりの他人だ」という前提の上で成り立っている。二度と会わないから、遠慮なく削り合える。値切りは冷たい行為ではなく、関係を作らないという合意のもとで許される、一種の遊戯なのだ。だから終わったあと、案外お互い機嫌がいい。
近所の八百屋で値切れないのは、そこが清算の場ではないからだ。明日も来る。顔を覚えられている。値段を削れば、削られたぶんは相手の生活から出る。つまりあの店で、私は完全な他人になれない。値札を黙って払うことは、無関心ではなく、関係を続けるという意思表示なのだと思う。値切らないことで、私は小さな貸しをつくらずに済ませている。
とはいえ、値切りを遊戯と呼べるのは、削られた額が生活に響かない側の言い分かもしれない。旅先の笑顔の向こうで、その百円がどれほどの重さだったかを、私は知らないままだった。
値段を巡る攻防は、いつでも力の差の上で行われる。買い叩くことと、交渉することは、外から見ると同じ形をしている。違いは、相手の生活まで想像できているかどうかの、それだけだ。