締切がないと、なぜ書けないのか
— 前夜の集中と、ハイデガーの有限性
時間はいくらでもあったはずなのに、動き出すのはいつも前の晩だ。無限の時間が、なぜ何も生まないのだろう。
締切まで一か月あった。毎週末に少しずつ進めるつもりだった。そして今、私は前の晩の机に向かっている。不思議なのは、この数時間の集中が、過ぎ去った四週間より遥かに濃いことだ。
もっと不思議なのは、締切が消えたと聞かされた瞬間、その集中も消えてしまうことだ。時間が増えたはずなのに、手が止まる。
なぜ、終わりがないと始められないのだろう。時間が無限にあることは、自由のはずだ。それなのに、なぜ無限の時間は、こんなにも何も生まないのか。
ハイデガーは、人間の生を「死へとかかわる存在」として捉えた。ここで彼が見ていたのは、いつか死ぬという事実ではない。人は普段、死を「いつかは誰にでも訪れるもの」として、他人事の形にして遠ざけている。そうして日々を、なんとなく続くものとして生きている。
彼が「先駆」と呼んだのは、その遠ざけをやめ、終わりを自分のものとして引き受ける態度だった。終わりが確定した瞬間、それまで無数に広がっていた可能性は、有限な選択肢に変わる。どれを選んでもいい状態は、実はどれも選ばなくていい状態だ。終わりだけが、可能性に重さを与える。
この補助線を引くと、締切前夜の異様な集中が見えてくる。あれは、生の縮図だ。締切とは、貸し与えられた小さな死である。終わりの時刻が定まった瞬間、私の残り時間には値段がつき、どの一時間を何に使うかが、初めて選択になる。四週間のあいだ何も進まなかったのは、怠惰だからではない。終わりが遠すぎて、時間が可能性のままだったからだ。可能性は、それ自体では何も生まない。
だから締切が取り消されると、集中も消える。時間が増えたのではない。時間が形を失ったのだ。器がなければ水は水たまりになるように、終わりがなければ時間はただ滲んで広がる。私たちが締切に感じるあの憎しみと感謝の入り混じった感情は、有限性そのものに対する感情の、小さな写しなのかもしれない。
もっとも、前夜に書き上げたものが、いつも良いとは限らない。追い詰められて出てくるのは、たいてい手癖の産物だ。締切は形を与えるが、深さは与えない。締切に依存し続ける書き手は、外から与えられた終わりがなければ、自分では何も始められない人になる。
本当に難しいのは、誰も締切を引いてくれない仕事のほうだ。そこでは、終わりを自分で引くしかない。それができる人のことを、たぶん人は、大人と呼んでいる。