「いただきます」は誰に言うのか
— 一人の食卓と、モースの贈与論
誰もいない部屋で、それでも手を合わせてしまう。あの言葉は、いったい誰に向けられているのだろう。
一人暮らしの部屋で、買ってきた惣菜を並べ、箸を取る前に、なぜか小さく手を合わせている。声にも出さない。見ている人もいない。作ってくれた誰かが目の前にいるわけでもない。
それでも、その動作をしないと、食事が始まらない気がする。子どもの頃に躾けられた癖だと言えばそれまでだが、癖にしてはあまりに律儀に、私はこれを続けている。
「いただきます」は、誰に言っているのだろう。作り手か、生き物か、それとも誰でもないのか。相手のいない挨拶が、これほど自然に口をつくのはなぜか。
言葉の形を見ると、「いただく」は「頂く」、つまり頭の上に載せることだった。捧げられたものを、自分より高いところで受け取る仕草である。この語には最初から、受け取る者が低く、与えるものが高い、という上下がある。「ごちそうさま」の「馳走」が、客のために走り回ることを意味したのと対になっている。片方は与える側の労を、片方は受け取る側の負い目を、それぞれ名指している。
マルセル・モースは、世界各地の贈り物のやりとりを調べて、そこに三つの義務があると見た。与える義務、受け取る義務、そして返す義務である。彼が驚いたのは、贈り物が決して無償ではないことだった。物には贈った人の何かが宿っていて、受け取った側は、返礼するまでその何かを預かったままになる。贈与とは、気前のよさの表現であると同時に、返済期限のない負債を発生させる装置なのだ。
この補助線を引くと、あの手のひらが説明できる。食卓の上のものは、すべて誰かからの贈り物だ。育てた人、運んだ人、調理した人、そして何より、食べられるために死んだ生き物たち。だが決定的なのは、この贈与だけは、原理的に返礼できないということだ。命を差し出したものに、命を返すことはできない。私は受け取る義務だけを果たし、返す義務を永久に果たせない。
だとすれば「いただきます」は、感謝ではなく、承認なのだと思う。私はいま、返せないものを受け取ります、という承認。相手がいなくても成立するのは当然で、そもそもこの言葉は誰か一人に向いていない。返しきれない負債を負ったまま生きていることを、食事のたびに思い出す、そのための短い儀式なのだ。手を合わせるのは、宛先のない受領書に、判を押す動作に似ている。
とはいえ、負債という言い方には、どこか息苦しさもある。食事のたびに罪悪感を確認する必要などない、という反論はもっともだ。感謝が義務になった瞬間、それは感謝でなくなる。
ただ、返せないと知りながら受け取ることを、人は昔から「ありがたい」と呼んできた。有り難い——めったに無い、という意味だ。返済不能を嘆くのではなく、稀であることを噛みしめる。あの一言は、たぶんその方向を向いている。