故郷とは、どこのことか
— 帰省の違和感と、ヴェイユの根
帰ってきたはずなのに、どこか客の気分でいる。故郷にいながら、故郷が恋しいような、あの奇妙な感覚はなにか。
久しぶりの帰省だった。駅前は再開発で見違え、通っていた店は名前を変え、実家の自分の部屋は、いつのまにか物置になっている。懐かしい。それは間違いない。だが同時に、妙によそよそしい。「帰ってきた」はずなのに、湯呑みの場所ひとつ、もう分からない。ここに居るのに、ここが恋しいような、おかしな感覚だけが残った。
故郷とは、どこのことなのだろう。地図上のあの場所のことなら、私はいま、まさにそこに立っている。それなのに、なぜ「帰り着いた」という感じがしないのか。私が恋しがっていたのは、本当に場所だったのか。
シモーヌ・ヴェイユは、祖国を追われた亡命先で、『根をもつこと』という本を書いた。冒頭近くに、こういう趣旨のテーゼがある。根をもつことは、人間の魂のもっとも重要な要求でありながら、もっとも無視されている要求である、と。彼女がここで言う「根」は、土地そのものではない。共同体の生活への、実質的で能動的な参加——過去から受け継いだものと、未来への予感とが行き交う回路に、自分も加わっていること。それが根づくということだった。
この補助線を引くと、帰省の違和感が解けてくる。私はあの場所に居る。だが、あの場所の生活には、もう参加していない。商店街の値上がりも、隣家の代替わりも、祭りの当番も、私を通らずに進んでいった。故郷が遠く感じられたのは、距離のせいではなく、参加が切れていたからだ。ヴェイユが「根こぎ」と呼んだものは、引っ越しで起きるのではない。回路からの切断で起きる。
つまり故郷とは、場所の名前ではなく、「自分がかつて参加していた生活」の名前なのだと思う。だから厄介なのだ。地図の上の場所へは、切符一枚で帰れる。だが過去の参加へは、どんな乗り物でも帰れない。帰省の違和感の正体は、場所に着いたのに、故郷there には着けないという、この行き先のずれだった。
ただ、ここで話は暗くならない。根は、一本きりではないからだ。ヴェイユ自身、人間は複数の環境を通して、道徳的・知的な生の糧を受け取るのだと言った。移り住んだ街で、行きつけの店ができ、名前で呼ばれるようになり、ごみ出しの曜日が身体に入る。参加が始まるたびに、細い根が一本、静かに生える。故郷は、生まれたときに一つだけ配られる土地ではなく、参加のたびに事後的に増えていく何かだ。あの町も、あの国の学生寮も、いまの職場のある街も——根の細さはそれぞれでも、どれも私を養っている。
それでも、と思う。幼いころの故郷にだけある、あの手ざわりは、参加という言葉で覆いきれない。あの土地の光や、夕方の匂いは、私が選ぶより前に染みこんだもので、あれだけは後から生やせない。
そして、ブロッホという哲学者の、逆説めいた一行を思い出す。故郷とは、誰もが幼年期にいたと思っているのに、まだ誰も居たことのない場所である——。懐かしさの正体が、失われた過去ではなく、まだ果たされていない約束なのだとしたら。帰省のあの違和感は、喪失の証明ではなく、方角の合図なのかもしれない。故郷は背後にではなく、これから根を下ろして作っていく、前方にある。