「私たち」は、どこで終わるのか
— 負けの夜のやるせなさと、アンダーソンの想像の共同体
応援していた代表が、敗れた。自分が負けたわけでもない、知りもしない人々の敗北なのに、この悔しさは、なぜこれほど胸に重く残るのだろう。
応援していた代表が、敗れた夜のことだ。勝てたかもしれない、と思えてしまうぶんだけ、悔しさがあとからあとからこみ上げてくる。妙なのは、これが私自身の敗北では、まるでないことだ。私は何かを失ったわけでも、自分の努力が報われなかったわけでもない。それなのに、やるせなさが、その夜ずっと胸の底に居座って、どうしても動かなかった。
悔しさにも、いくつか種類がある。これは、自分の力ではどうにもできなかったことに対する、いちばん手の出しようのない悔しさだった。
なぜ私は、自分のものでもない悔しさを、これほど本気で抱えているのだろう。普段、自分が特別に何かを背負っているとも思っていない。なのになぜ、遠くの誰かの勝ち負けが、頭ではなく身体ごと、私をここまで揺さぶるのか。そして勝ったときよりも、負けたいまのほうが、その揺さぶりの正体が、はっきり見えるのはなぜか。
ベネディクト・アンダーソンは、国民を「想像の共同体」と呼んだ。想像とは、嘘という意味ではない。どんなに小さな国でも、人はその成員のほとんどと生涯出会わない。にもかかわらず、一人ひとりの心のなかに、互いに結ばれているという像が宿っている。村より大きな集まりは、すべて想像によってしか存在しえない。国民とは、指させる身体を持たないまま、無数の頭のなかに同時に抱かれている、ひとつの像なのだ。
この像は、ふだんは薄ぼんやりとしている。私が日常で「自分たち」をはっきり感じることは、めったにない。だが、その抽象的な像が、何かの勝負を通して急に身体を持つ瞬間がある。勝敗という、誰の目にも分かる一本の線が引かれたとき、それまで像でしかなかった「私たち」が、ふいに手で触れられるほど現実になる。応援とは、その一瞬だけ、自分が大きな何かの一部であることを、感覚として確かめる行為なのだ。だからそれは、頭ではなく身体に来る。
では、なぜ勝利よりも敗北のほうが、その絆を濃く感じさせるのか。勝ったとき、歓喜は外へ爆ぜ、ひとりひとりが快さのなかへ散っていく。共同体は、自らを問い直すことなく祝う。だが負けたときは違う。喜びのように発散できない感情が、行き場をなくして内にこもる。やるせなさは、歓喜よりも長く、人を同じ場所に縫いとめる。そして敗北は、否応なく問いを連れてくる。私はなぜ、自分のものでもない悔しさを、こんなに抱えているのか、と。勝っているときには浮かばないその問いこそが、「私たち」という像の縁を、内側から照らし出す。
第十五夜で、作り手は、流れ去る生のなかに残るものを置きたいと願っていた。応援の渇きも、根は同じだ。自分より大きな何かの一部でありたい。経歴もいらず、誰とも知り合わないまま味わえる帰属。負けた夜にそれがいっそう沁みるのは、勝利の高揚が連帯を都合よく見せるのに対し、敗北は、なぜ自分がこの「私たち」に属しているのかを、ごまかしようもなく突きつけてくるからだ。
けれど、アンダーソンの定義には、もうひとつの言葉があった。共同体は「限られている」。境界を持つ、という意味だ。私のこのやるせなさと、寸分たがわぬ歓喜が、同じ瞬間に、勝った側のなかで膨らんでいる。こちらの悔しさと、あちらの喜びは、まったく同じ仕組みから生まれた双子だ。そして、人をひとつにするこの感情は、数度だけ向きを変えられたとき、歴史のもっとも残酷な場面を正当化してきたものと、構造としては同じものでもある。負けの夜のやるせなさは、その力の、いちばん無害で優しい顔をしている。優しくない顔も、まったく同じ力が持っている。
とはいえ、すべての帰属を拒み、線の上に澄まして立つ態度が、きれいな答えなのでもない。それはそれで冷たく、たいていは「私たち」を必要としないほど恵まれた者にだけ許される贅沢だ。誠実さとは、たぶん、この感情を消し去ることではない。負けの夜の、あの胸の重さを本物として抱えながら、同じ瞬間に、その重さが、向こう側の誰かを「彼ら」として締め出していることも、見ていること。皮肉なことに、その線は、勝って酔っているときよりも、負けて醒めている夜のほうが、ずっとよく見える。